大山良貴(おおやまよしたか)さんは長年そのぎ茶を生産し続けている『大山製茶園』の4代目。大山家の長男として東彼杵町で生まれ育ち、38歳から代表を務めています。良貴さんが作るお茶は高く評価されており、2013年度、2017年度の長崎県茶品評会では最高賞優等一席農林水産大臣賞を、2017年の第71回全国茶品評会では1等2席農林水産省生産局長賞を受賞しています。
また、日々お茶づくりに勤しみながら東彼杵町の若手お茶農家とのユニット『Tsunagu Sonogi Tea Farmers』や、高品質なそのぎ抹茶を手掛ける『株式会社FORTHEES』を立ち上げ、そのぎ茶の新たな可能性を開拓。日本国内のみならず海外へも積極的にそのぎ茶の魅力を発信し続けています。
代々お茶の生産を行ってきた大山家。良貴さんのおじいさんやお父さんが精力的にお茶づくりを行い品評会でも最高賞を数多く受賞、農家として強い基盤を築いていました。しかし、そんな家族を見つめてきた良貴さんは子供の頃からとある思いがあったそう。
良貴「子供の頃からお茶づくりがすぐそばにあって。その中でずっと暮らしてきていたから、長男である自分が『いつかお茶を継がなきゃいけないのかな』っていう思いは小さい頃からずっと心にありました。後継者になることは、なかなか気が進むものではありませんでしたね」
複雑な気持ちを抱えたまま、両親のすすめで長崎県立諫早農業高校、長崎県立農業大学校へと進学。5年間の寮生活を送るなかで夢中になったのは音楽とアルバイトでした。
時間を見つけては好きなアーティストのライブに出かけたり、バンド活動やDJをやりながら飲食店や洋服屋のスタッフ、カメラマンなど様々な経験を重ねていった良貴さん。22歳の3月終わりごろに子供の頃からの苦い思いが爆発、家出を決意します。
良貴「『農業をしたくない』という気持ちが限界まで膨らんでいたのもあったし、自分が30歳くらいになった時にお茶以外の仕事をやりたくなっても何もできない状態になってしまうのがすごく嫌で。それで自分の人生なんだから、大きなことにチャレンジするなら今のうちかなと思い家を出ました。両親には『探さないでください』って手紙を書きましたよ(笑)」
4月から始まった東京での生活。最初の数か月は日雇いや清掃の仕事をやりながら音楽漬けの日々を送っていましたが、ある日よく通っていた渋谷のシスコレコードでスタッフを募集していることを知り応募、すぐに働くこととなりました。
レコード店へ勤め始めて2年が経とうとするころ、母親の英子さんが仕事中の事故で骨折してしまったとの連絡が入ります。あと数年は東京で頑張りたいと考えていた良貴さんでしたが、この事故をきっかけに25歳で実家へ戻ることとなりました。
帰郷してからは音楽イベントに参加しDJの活動を行いながら、お茶づくりも積極的に手伝うように。やがて38歳で結婚したことをきっかけに経営譲渡の話が持ち上がり、大山製茶園の4代目としての道を歩み始めました。
良貴「いよいよ4代目として「さあやっていこう!」ということになったんだけど。3代目である親父は中学を卒業してからずっとお茶をやっていて、事業規模を拡大して工場を作ってきたから色んな賞をもらってきたし、そのぎ茶業界をリードしてきた人でもあったんです。だからこそ周りからの期待やプレッシャーはすごく感じていましたね」
この頃から良貴さんが力を入れ始めたのがお茶の小売です。茶葉の価格が年々低くなっており危機感を覚え始めたことや、市場での値段が年によって変わるためその差を安定させたいなど様々な理由があったそう。
良貴「親父から「荒茶の平均価格を絶対に落とすな」って言われてて。息子の代になってお茶が悪くなったって周りに言われたくなかったし、俺の時はこの値段で売れてたっていうのも親父に言われたくなかったんです。それで色々と模索しながら…お茶屋さんに卸す分とか市場に出す分とかもやりつつ、小売も少しずつやっていこうという感じでスタートしました」
小売を始めたことでお客さんと直接顔を合わせてやり取りする機会は増えたものの、最初は思うように売れません。その状況を打破しようと良貴さんが思い立ったのは「もっと若い人にお茶を飲んでほしい、そのために若い人が手に取りやすいパッケージを作ろう」というアイデアでした。
良貴「当時、お茶のパッケージと言えばお茶畑の写真が載ってたり銘柄の名前だけが載っているような渋いデザインしかなかったんです。最初はプロのデザイナーに頼む案もありましたが、自分が音楽イベントでのフライヤーやポスターをよく制作していたので、経験を活かして自身でやってみようかと」
良貴さんが初めて作ったのは真っ黒のパッケージ。最初は年配の方々から不評の声があがったものの少しずつデザインを改良し現在のものに至ったそう。日本の伝統的な文様をあしらったスタイリッシュなパッケージは年代を問わず人気を掴み、小売の売り上げは上昇。茶畑の規模拡大にもつながっていきました。
転機が訪れたのは2013年。今や東彼杵町の大人気スポット『Sorriso riso』が町づくりの大きな一歩として立ち上がろうとしていたとき、良貴さんへ「ソリッソリッソでお茶を売りたいので、そのためのお茶を用意してくれませんか」との誘いがかかります。
良貴「ソリッソの話があり、何かしらの形で貢献出来たらと。お茶農家の後継者仲間はたくさんいるし、その仲間と力を合わせてお茶や町全体の活性化になればと『Tsunagu Sonogi Tea Farmers』というユニットを結成しました。最初は5人でしたが翌年仲間が一人増えて6人に。数年後には大きな品評会を控えていたこともあり、そのぎ茶の地位を確立していくためにもお互いに意見を出し合い高品質なお茶を作ろうと取り組み始めました」
やがて精力的な活動の中で完成したのがSIX SENSES(シックスセンス)。6人が各自の農場で栽培した6つの品種が1つずつパッケージングされ、品種それぞれの個性を存分に味わえる商品です。2018年の世界緑茶コンテストでは金賞とパッケージ大賞を受賞し、ソリッソリッソに訪れるお客さんの間でも大好評のお土産となりました。
さらに、ツナグの活動範囲はどんどん広がっていきます。まずは県内や国内でのイベントでお茶のテイクアウト販売などを行い、オランダや香港などの海外での展示会へも積極的に参加。そのぎ茶の知名度がだんだんと認められるようになりました。
そしてツナグの仲間である尾上和彦さんが品評会で日本一になったのを皮切りに、良貴さんや他の仲間も日本でトップクラスの賞を受賞。日本茶ではマイナーであったそのぎ茶に光が当たり始め、ユニットとしてかなり理想的な流れへと変わっていきます。
良貴「シックスセンスが生まれたのは『自分たちはこういう成り立ちでこういう風に育ってきてこんなお茶を作っています』ってことを発信しなければ、という理由から。というのも日本って、例えば農家とかモノづくりをしている人があまり表に出てないんですよね。そのイメージを逆転していくためにもっと自分たちのことを発信していかないといけないし、作り手の数が全国的に減ってきているからこそ、もっと日の目を浴びてもいいんじゃないかと思っています」
ツナグで実績を作った良貴さんが次に仲間と挑戦したのが碾茶工場です。海外での展示会の際に抹茶がかなり売れたことから新たな光明を見出し、そのぎ独自の抹茶を手掛けていくために『株式会社FORTHEES』を立ち上げ。2019年に佐賀・長崎で初めての碾茶工場を設立しました。
フォーティーズで作られた抹茶は香り・苦み・コクが絶妙なバランスで、その上質な味わいは評判を呼び長崎県内外の飲食店でも数多く採用されています。2020年にはアメリカの大手ティーブランドからのオーダーも舞い込み、コロナ禍である2021年現在も順調に生産を続けているそう。
最後に、良貴さんへこれからのそのぎ茶に対する思いを伺いました。
良貴「4代目としてお茶を作り始めたときから思っているのは、東彼杵で一人だけがどんなに良いお茶を作っても産地としては盛り上がらないということ。色んな人達が賞を取って実績を作るからこそ、良い産地として良いお茶ができると考えています。さらには嬉野や波佐見など近辺のお茶の産地とも力を合わせていければ、人や物が循環してさらにベストな方向に向かっていくんじゃないかなと思います。そしてここ数年でそのぎ茶は良い流れの中にいますが、それは農家だけでなくお茶屋さんや問屋さんがいてくれたからこそ。これからも産地全体のうちの一人としてそのぎ茶の実力を底上げしなければと思いますし、今の流れに乗ってまた新しいことにも挑戦したいですね」
由緒あるお茶農家を受け継ぎ、そのぎ茶業界のリーダーとして走り続けている大山良貴さん。良貴さんがこれから作り出す新たなそのぎ茶がどんなものになるのか、とってもとっても楽しみでなりません。
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